人気ブログランキング | 話題のタグを見る

あるびん・いむのピリ日記

cookieimu.exblog.jp
ブログトップ

「見ること、在ること」

『伽耶子のために』を見て、韓国人(李恢成は在日ですが…)の文学的メンタリティーに日本的映画言語を重ねようとして上手く行かなかった、という、先日の民団フェスでの小栗康平監督の話を聞き、なぜ、監督の最新作(今のところ、1996年製作!)『眠る男』があそこまでホントに“眠い”作品になったか…という、監督によるメタファーの「間」の置き方に対する疑問は解けたが、それでも、まだ、なぜ、では眠りっぱなしの主人公が、名優アン・ソンギでなくてはならなかったか…ということは理解できずにいた。
「見ること、在ること」_c0018642_2343112.jpg




「見ること、在ること」_c0018642_12231240.jpg

 要言すれば、究極の名優である人の発する「オーラ」をもってしなければ、「眠り続ける」という、最も内発的な精神の情動を精細には描き出せなかった…ということらしい。それが「群馬」という日本の中の地方、そして都市の人間性の喪失を端的に表現できる自然とのコラボレーション…ということも相俟って、脱日本俳優、ということが考え出されたという。そうした監督の言葉にはとても重みを感じた。
 実際、このエッセイ集をひもといてみると、『風吹くよき日』『馬鹿宣言』などで知られる、かつての韓国ヌーベルバーグの旗手、イ・チャンホとは早い時期から親交があり、彼の推薦で『眠る男』が第一回釜山国際映画祭の上演作品になったことなどが本文中で紹介されていた。これが、韓国における日本語の映画上映の嚆矢となったというのだから意義深いことではある。

それで、アン・ソンギ先生を主人公の拓次にして眠らした理由には納得がいったのだが…それでも、もっと動くところ、起きて芝居をする部分を見せて欲しかった!という思いは変わらない。なんせ、実質『シルミド』がヒットするまで、ずーーっと『眠る男』のアン・ソンギ、という肩書き?がついて回ったのだから。いくらアンソンギ先生ご自身が、この映画のご自分の「演技」に満足されていた、としてもである。

まあ、そんなエピソードを知るのにも好適であったのだが、そのほかにも監督の生い立ちの記や、寡作で知られる小栗監督の、『泥の河』、『伽耶子のために』『死の棘』の三作に対する緻密な製作ノートとでも言うべきエッセイも載せられているので、彼の作品を理解しよう…という人にはよりお勧めであろう。1996年、平凡社刊、1,700円。
by cookie_imu | 2005-02-18 15:17 | 最近読んだ本・雑誌・漫画