昨日楽団の練習が終わって一杯やっていた時、
楽団長のパククンジョン先生に聞いてみた。
「ピリのヨンフン先生は、難しい吹き方を教えて下さる時、
とにかくいっぺん出来るまで何度でも繰り返すんですよ。
『そこは今の今、急にはできないから家で録音聞いて何度も
練習しますから』って言っても許してくれない。とにかく
一通りできるまで、15分でも20分でもとにかくじっくりと
繰り返し繰り返し練習させるんです・・・どうしてなんでしょう?」と。
クンジョン先生はうーん、と唸ってから、「それはだな・・・
君の基準では教えていない、っていうことだと思うよ。例えば、
レストランに行ってカレーを頼んだとするね。大辛口と中辛があって、
君はでも、その中間の「やや大辛口」が食べたかったとする。でも
レストランではそれは作ってくれない。『ウチのカレーの辛さで
選んでください』って言うだろ?それと同じことだよ」
なんだか分かったような分からないようなお話だったが、何となくは
分かった。要するに教える側にはその人なりの基準があって、今は
この技の壁を乗り越えないと次に進めない・・・となったら習う側の
都合はともかく、とことん教えるのだ・・・ということなのだろう。
ただ・・・問題はその「行きつく先」が見えない、ということだ。
日本の芸事な場合、免状だ、秘伝だ、名取だ・・・といったグレードが
比較的はっきりしている。例えば私が稽古していた能楽では、
幾つもの段階を経て「名人」へと至る、という道筋が比較的はっきりと
していた(無論努力したって名人にはなれない人も多いが)しかし、
韓国の伝統芸能にはそれがない。口伝や秘伝、世阿弥の言う「位取り」
が無いのである。それはそれで家元制度などという、一種の搾取組織を
生み出さない・・・という良い面はあるが、何をどのくらいすれば、
その曲の価値に見合った「荘重かつ重厚な」演奏が出来るようになるのか・・・
が、全く見えてこないのである。あるのはただ、技術的な難易度だけ。
王様の前で吹く「雅楽」も、庶民の中で吹く「民謡」も基本は同じである。
・・・ただ、実は日本の雅楽も同じである。あまりにも秘伝化しすぎた結果、
絶滅の危機に至る直前、唐突に民間に開放されたので家元なども無く、
曲も技術的に難しいのか、長いのか短いのかの区別くらいしかない。
例えば「越殿楽」はよく知られた名曲だが、技術的にはそう簡単ではない。
日本と韓国の「雅楽」がそういう意味では同じようなポジションに置かれて
いる・・・というのはある意味、面白いことではある。偶然に過ぎないのだろうが。
家元制度なんて、百害あって一利くらいしかない・・・と思っていたが、
こと伝承という面ではそうでもない事が分かってきた。これは興味深いことである。