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あるびん・いむのピリ日記

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『博士の愛した数式』

『雨上がる』『阿弥陀堂だより』で知られた、黒澤明の忠実な後継者にして、日本映画の正統伝承者とも言われる、 小泉堯史監督の三作目である。本日初日、銀座東宝にて鑑賞した。
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主演は、これも小泉監督と三度目のコラボレーションとなる寺尾聡。寺尾扮する博士の家政婦となるのが『踊る~レインボーブリッジ封鎖せよ』『阿修羅のごとく』で知られた深津絵里。そして寺尾の義姉を演じるのは、大ベテランの浅丘ルリ子。スタッフは、例によって小泉組というか黒澤組だ。



「サシ(コミ)・ヒラキ」というものがある。まず、扇を握った右手を前に出す。と同時に足袋を履いた左足を摺足で前方に一足出す。次に左手を右手に添えるように前方に出す。同時に右足を出し、左足に揃える。次に、両手を方の高さに上げて、左右に開く。同時に左、右、左と足を半足ずつ後方にしさり、腕は閉じてもとの基本の構えに戻す(流派によって若干は異なるが、基本は同じ)。このように書くと非常に複雑な動作のようだが、実にシンプルで美しい動作である。能楽だけではなく、日舞などの基本動作にもなっているもので、初心者はカマエという基本の立ち姿と、ハコビという摺足の歩行と共に、三ヶ月くらいはもうこればかり徹底的に稽古される。出来心やほんの好奇心で始めた人は、残念ながらこの段階でほとんどが脱落してしまう。しかし・・・、この型がきちんと身についていないと、あとは何をやっても駄目である。決して美しくならない。基本にして、常に磨き続け、プロであっても最後まで修行を続けるのがこの「基本の型」なのである。
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薀蓄のような前置きを長々とお聞かせして誠に恐縮であるが、私は「数式」というものもこの「型」のようなものだと思っている。つまり、基本であり、シンプルゆえに美しい。そして、それ自体で完結し、永遠の輝きを放っている。そこには何者も容喙できないような「真理」が宿っているのだ。しかし・・・数式は実際に応用されることで、無限の可能性も放っている。能楽の「型」もそうだ。プロの能楽師は鍛え抜かれた肉体を持ち、舞台上で長刀を振り回し、競歩より速く全力で疾駆し、バレリーナより軽やかにつま先で舞い、時には宙返り、空中浮揚(組み落としという)、空中回転まで行い、そして全力で重さ百キロもある釣鐘の中に、二十キロ以上の装束と面を付けたまま飛び込む。これら軽業のような全ての技を体得したもののみが、これを内に秘め、完璧に静寂な演技を行うことができるのだ。
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実は・・・私は小泉監督作品を見るのはこれが初めてである。その評判の高さや、社会的評価は知りながらも、なぜか意図的に見ることを避けていた。そこには、いかにも日本的な正統の美の追求者・・・という以前に、「黒澤の継承者」という、"型の模倣"を厭う意識が働いていたのだと思う。しかし、その私はといえば、型の模倣に青春の一時期を費やした者でもあるのだ。つまり――、型に嵌るのではなく、「型から入って、型から出る」ことを目標としたものなのであり、小泉監督作品が「型の中に入ったままで終わっている」ものであることを見るのを、実際、恐れていたのだ。
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しかし、その心配は全くの杞憂だった。小泉監督は、「型」を完璧に身につけ、自家薬籠中のものとしていた。その一点の隙もなく、寸分の狂いもなく造形された映画は、まるでそれ自体が一個の精緻な、日本伝統の工芸品のような出来だった。だからといって、感情がこもっていないのではもちろん、ない。その内に秘めたる情念の炎も熾烈に燃え盛っているのだが、それを一切、表面には出さないのだ。そうはいっても観客の解釈のままに任すような尻切れトンボな描き方もしていない。しっかりとした監督の自己主張と理念でもって、原作と映画との「行間」もきちんと埋めてある。最後に、やや型が派手だが(苦笑)真っ当な芸位を持っている観世銕之丞とその一座で「江口」のキリを舞わせた見識にも、敬意を払いたい。
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その、監督の意図と理念を、これまた抜群の「型」の力で支えているのが寺尾聡の「博士」であり、その「義姉」の浅丘ルリ子である。その骨格感。深々と奥行きを感じさせる風貌。もう、ひたすら脱帽である。その二人と現実をつなぐ役割をする深津絵里や子役、また大人になった子役「ルート」を演じた吉岡秀隆も、充分に現在彼らの持てる力を発揮していた。だから・・・この映画は決して見た目だけのような「大人しく」て「優しい」だけの求道的映画ではないのだ。ましてや、黒澤組の残党による名匠の芸術品として、美術館に埃を被らせて奉戴しておくものでもない。まぎれもなく、日本が世界に誇りうる「日本的情念の美」の烈々たる発条なのだ。大変僭越ながら、ぜひ、そのことを理解してみていただきたいと思った次第である。
by cookie_imu | 2006-01-21 21:35 | その他邦画・洋画